世界観の再構築

心を開く、信じるということを
自分が思っているよりは、できてないんだなということを
最近、よく感じるのです。


もちろんそれは、目に見えない存在や、自分自身のスピリット
それから周囲の人たちの優しく親切な心や愛、
そうしたものをまったく感じられず、自分ひとり
宇宙の孤児のような気持ちでいた頃に比べれば
ぜーんぜん、段違いに、できているんだけれど!



それにしても、できる/できないという言葉で表現すると
ちょっと微妙に「そのもの」からずれてしまう・・・。
できる/できない、というよりは、
そのようにあれる/あれない の方が近いかな。


自分の心を開けない、信じられないということを感じるのは
とてもささやかな日常の出来事だったり、人との繋がりの中。
それは、出来事ということもはばかられるくらい小さな瞬間
だったり気配なんだけれど、(もちろん、これは・・・−−;
と思うようなことも含めて)最近になってこのことをよく感じるのは
「もっともっと心を開けるよ」、「もっと信じられるよ」
というメッセージだと思うことにしました。


全然話は飛ぶようなんだけど、
私は横綱朝青龍の大ファンです。
たぶん、彼の良さって、マスコミの評判を聞いたり、
ちらっと大相撲中継をみただけでは、わからないのかも
しれないと、一部の不人気ぶりに接すると感じます。
(もちろん、よーく見ててアンチってのもありますけどね^^;)


かく言う私も、最初は栃東関の姿に胸を打たれて大相撲に
関心を持った頃は、「朝青龍?あの評判のよくない?」くらいに
しか思ってませんでしたから。


でも、大相撲を熱心にみるようになったら
まずあの「強さ」に惹かれ、そしてあの業界であの明るさや
ちゃめっけを保っていられる精神の自由さに、惹かれたのでした。


とにかく、もったいぶらないし、明るい!


人間、偉くなるととかくもったいぶりがち
(周囲もそれを要求するところあり)ですけど、
決めるところは決め、くだけるところはくだける。
その緩急がたまらなく、よいです。


ま、礼賛はそれくらいにして、何がいいたいかというと
よく知ってみれば、その良さがわかるのに
表面的なことや、一度や二度の体験で「良くない」って
決めつけてしまうのは、自分の楽しみの世界を
狭くしちゃうだろうということです。


自分の体験や感覚を信じるということは、とても大事だけれど
その体験や感覚は、もしかすると自分の世界が広がれば
違ったものになるかも知れない。


だから、一度、二度、と経験したことがあることでも
改めてまっさらな気持ちで、再体験してみるのも
いいかも知れない、ということなのでした。


なんで横綱の話がそこに繋がるのか、自分でもさっぱり
わからなくなってきましたが(^^;


これまでの自分の体験や感覚の蓄積で
構築してきた世界観を、もっと開いた心や、もっと確固とした
信じる気持ちをもって感じたことや体験したことによって
再構築したいな。


※この日記を書き終えたら
「4」という数字のオンパレード。